1986年5月15日、Profile RecordsからリリースされたRUN DMC、通算3枚目のアルバムが本作だ。
ヒップホップの四大要素を発祥の地、ニューヨークのブロンクスから世界中に広めたのは映画「ワイルド・スタイル」(1982年)であったが、まだまだ「ヒップホップ」というカルチャーはマイナーなもので、広く一般に知られるようなものではなかった。
そんな中にあって、1986年にベテランロックバンド、Aerosmith(エアロ・スミス)とタッグを組んで特大ヒットとなった「WalkThis Way」を収録。1975年にリリースされた名曲をリメイクし、ロック・リスナーまで巻き込んでヒップホップに対する注目と世間一般の認知を爆発的に高めたのが本作である。
ヒップホップが普及する以前、ブラックミュージックの主流はディスコミュージックであったが、そこでの多くのソウル・ファンクバンドの煌びやかな衣装とは一線を画す、ニューヨーク、クイーンズの街角からそのまま抜け出してきたかのような紐なしのアディダス、スポーツウェアの着こなしはスタイリッシュで、視覚的にも絶大なインパクトをもたらした。
そして日本へもその熱は波及し、1986年にRUN DMCはプロモーション来日を果たし、「笑っていいとも!」にも出演、
この時期は音楽に興味がない友人も「ヒップホップはよくわからないけどRUN DMCは知っている」といった感じだったことを記憶している。スポーツウェアに身を包んだ3人組が我が物顔で登場し、歌うさまはお茶の間レベルでも強烈なインパクトを与えていた。
RUN DMCが台頭する前の世代のコールド・クラッシュ・ブラザーズ、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴといったグループもスポーツウェアを着こなしており、ニューヨークではadidasやPumaのスニーカーが人気を博していたが、従来のラップグループたちはヒットをきっかけにそのファッションをストリート仕様のシンプルなものから、パンクとディスコが入り混じったような奇抜なものへと変えていた。
こうしたファッションにはファンク界の大御所、George Clintonたちへの憧れがあったのかもしれないが、とにかく「ストリートで流行しているスポーツウェアを着て、そのまま大きなステージに立った最初のヒップホップ・グループ」とは、RUN DMCだった。
本作収録の「My Adidas」は当時としては斬新なストリートファッション讃歌で、藤原ヒロシ(タイニー・パンクス)をはじめとする日本のファッション業界の重要人物にも衝撃を与えたという。
メンバーのDMCは1998年のインタビューで
「俺たちは『衣装』ではなく、そのままの服装でステージに上がった。そうして、他のラップグループよりも密接な関係をファンと築いた。ファンにとってはステージの俺たちは『鏡に映った自分たち』を見ているようなものだったからさ」
と語っているが、彼らのヒットによって世界中の人々が「ストリート産のホンモノのヒップホップ」に初めて触れた。と言っても過言ではないだろう。
世界中どこにでもある有名ブランドのスポーツウェアを粋に着こなし、楽器を扱えなくとも「マイクとターンテーブルのみでミュージシャンたり得る」というヒップホップ特有の敷居の低さを明確にした彼らのブレイクは、世界中に膨大な数のヒップホッパーを生む契機となったのだ。
先鋭的なサンプリング・ミュージック


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「サンプリング・ミュージック」という側面から見ても本作に収録されている「Peter Piper」は斬新なものだった。
Bob James「Take Me to The Mardi Gras (1975)」という当時のB-Boyたちの好みとはかけ離れた、ドラムの弱いフュージョン楽曲をタフでハードなヒップホップへと変貌させたのは見事だった。
ちなみにライムスターの宇多丸氏はRUN DMCのBob James「Take Me to The Mardi Gras (1975)」サンプリングについて、
『本来は「世界の車窓から」で流れているような牧歌的な曲で、それをカッコいいヒップホップにしてしまったのが凄い』と語っていたような記憶がある。
総括すると、Run DMCのキャリア中でも最大のヒット・アルバム「Raising Hell」は、ビジュアル面からもサウンド面からも、その後のビジネス面からも従来の「ゲームを変えた」、ヒップホップ史上に残る前代未聞の名盤となったのである。


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