
ジャパニーズヒップホップ、日本語ラップの歴史をシリーズ化して伝えていく本記事。
第一回となる本稿では1985年から1989年までの情勢を追ってみた。
それでは一年ごとにシーンの出来事を振り返ってみよう。
1985年
1985年以前にもYMO(坂本龍一・細野晴臣・高橋幸宏の三者によるテクノ・ユニット)「Rap Phenomena」(1981年)やザ・ドリフターズ「ドリフの早口ことば」(1981年)、吉幾三「俺ら東京さ行くだ」(1984年)、佐野元春「Complication Shakedown」(1984年)など「ラップ調」の曲は存在していたが、日本語でのラップアルバム・ヒップホップ作品の元祖といえば、いとうせいこう「業界くん物語」(1985年リリース)になるだろう。
「ヒップホップ」と「ラップ」の違いについてはこちらの記事で詳しく解説しているのでご参考に
ともあれ、「業界くん物語」はコントと音楽が共存する企画盤ではあったが、ヤン富田、藤原ヒロシ、高木完、屋敷豪太、DUB MASTER Xなど日本のクラブ・シーン黎明期の重要人物たちが参加。
DJのスクラッチや、いとうせいこうのリズミカルなフロウなど、それまでのお笑いや実験ではなく当時としては国内最先端の本格的なヒップホップ楽曲が収録された。という意味において重要な作品であった。
1986年
1986年はRUN DMCが「Raising Hell」をリリースし、日本のアーティストにも多大な影響を与えた年であった。
日本では近田春夫=President BPM(プレジデントBPM)が「Masscomunication Breakdwon」をリリース。
ニューヨークのブレイクダンサーたちから愛され続けるB-Boy Break、The Mohawks「The Champ」をサンプリング、歌詞もマスメディア批判と、骨太な内容となっている。
また、同年にはいとうせいこう & TINNIE PUNX(タイニー・パンクス)が「建設的」をリリース。
この作品はアメリカのヒップホップを意識して作られた日本初のアルバムとも言われており、のちにリプレスされるなど日本語ラップシーンにおいて再評価がなされている。
1987年〜1988年
前年、本場で誕生した新たなヒップホップ界のスーパースター、RUN DMCの熱に当てられるかのように、日本では藤原ヒロシ、高木完、屋敷豪太、工藤昌之らが「Major Force(メジャー・フォース)」レーベルを設立。
Major Forceが主催する「DJ Underground Contest」をはじめ、東京ではコンペティション形式のイベントが開催されており、
ヒップホップ・ユニット、B Flesh 3(Bフレッシュ・スリー)から独立したDJ Krush、MuroらがメンバーのKrush Posse(クラッシュ・ポッセ)、ECD、スチャダラパーといった面々もこうしたコンテストで鎬を削っていた。
また、DJ HAZUとTWIGYのユニット「BEAT KICKS」が1987年に結成。
ちなみにグループ名の由来となったのは同年リリースのT La Rock「This Beat kicks」だろう。
1989年
いとうせいこう、ヤン冨田がアルバム「Mess/Age」をリリース。
ヤン冨田の手がけるトラックはジャズ・カリプソなどワールドミュージックをサンプリングした先鋭的なもので、
いとうせいこうの言葉選びも、現代まで繋がる「文系ヒップホップ」の基礎となる知的、アバンギャルドなものだった。
業界人たちが目立った80年代の日本語ラップ・シーン
日本語ラップの黎明期にヒップホップに目をつけていち早く作品を残したのは、ニューヨーク、ブロンクスの貧民街の黒人たちのような「持たざる者」ではなく、いとうせいこうをはじめとするメディアにも通じる「業界人」たちであった。
対して、Krush PosseやYou The Rock★、ECD、Rhymesterといった90年代の日本語ラップ・シーンを牽引することになる本場志向の面々は、コンテストに参加するなど日の当たらない場所で雌伏の時期を過ごしていた。
不遇な時期をニューヨークのマイノリティの境遇とも重ねたかのような彼らのフラストレーションは、90年代半ばに爆発することとなる。
とはいえ、いとうせいこうが後年のインタビューで語っているように、ヒップホップの持つ音楽的な革新性に惹かれたのが氏やタイニー・パンクスたち、不良性やマイノリティの「レベル・ミュージック」としてのヒップホップが持つ精神的な面に惹かれたのが90年代のシーンの転機となる「さんぴんキャンプ」に登場した面々、と考えると両者の表現に優劣はなく、「ヒップホップ」というカルチャーの捉え方の違いであったようにも思う。
東京以外の日本の地方都市でのヒップホップ
80年代後半には大阪でDJ Kensaw・DJ Tankoが関西では初めてのヒップホップ・ユニット「Law Damage」を結成していた。そして、東京での活動となるがのちに名古屋のシーンをTokona-Xと盛り上げることとなるDJ HAZU(刃頭)、B-FRESH POSSEのメンバー(MC BELL、CAKE-K、DJ KRUSH、DJ SEIJI、DJ BEAT、MURO他)として東京での活動を経て、故郷の北海道へと帰り独自の活動を行うこととなるDJ SEIJIなど、今や当たり前となった東京以外のローカルなジャパニーズ・ヒップホップシーンが、有力なDJたちによって形成されつつあったことも付け加えておきたい。
まとめ
1985〜1989年の日本語ラップシーンはファッション業界、芸能界とも繋がりの深い「業界人」たちが目立ち、シーンの第一世代となったが、
Krush Posseをはじめとするハードコアなスタンスのラッパーたちや、コンテストでは既にその芸風を確立しつつあったスチャダラパー、バトルイベントではECDとライバル関係にあったRhymesterなど、その後の日本語ラップシーンにつながる動きは随所で確認できた。
次回の記事では1990年から1999年のシーンについて振り返っていく。

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